2021/07/02B.HOPE STORY#009

東日本大震災から10年。福島・岩手・仙台・茨城-選手たちの想いとは。

東日本大震災から10年がたちました。震災の教訓を未来に引き継いでいくために、B.LEAGUE Hopeは2020-21シーズンに「B.Hope HANDS UP! PROJECT supported by 日本郵便」を立ち上げ、震災で大きな被害を受けた地域に拠点を置く4クラブ(岩手ビッグブルズ、仙台89ERS、福島ファイヤーボンズ、茨城ロボッツ)の活動も支援してきました。地元での活動を経験した各クラブの選手に、活動の意義や選手たちができることを聞きました。

福島ファイヤーボンズ/菅野翔太選手

――震災当時は、東北学院大(仙台市)の1年生でした。地震が起きた時はどこで何をしていましたか。

「バスケットボール部の練習が午後2時45分からで、まさに練習が始まった1分後に地震が来ました。当時のことは、しっかり覚えています。すぐに『全員逃げろ』となって、隣のコートにいたバレーボール部の部員たちと一緒に床を這いつくばりながら逃げました。体育館が2階だったので、階段を降りないといけなかったんですけど、手すりを使いながらでないと降りられないくらいの揺れでした。泣いている人もいました。揺れが収まったあとに荷物を取りに戻ったら、窓ガラスが割れ、ちょうど自分がストレッチしていた場所にはライトが落ちていました。逃げていなかったら、死んでいたかもしれないと感じました」

――その後はどう過ごしましたか。

「当時は一人暮らしだったんですが、バスケ部のマネージャーの家にはガスが通っていたので、部員5,6人くらいで集まって、5日間くらい一緒に過ごしていました。朝起きたらみんなでスーパーに並んで、食料やティッシュなどの日用品を買って。水をもらえる場所があると聞けば、みんなで1時間くらいかけて歩いて行きました。毎日6リットルくらい持って帰りました」

――福島県二本松市出身で、家族のことも心配だったと思います。

「地震直後は連絡が取れましたが、途中から電話が通じなくなってしまった。東京とはつながったので、東京にいた兄を頼りに両親の状態を確認していました。テレビもつかないし、携帯電話も電池を持たせるために電話する時くらいしか使っていませんでした。だから、津波の被害を知ったのは3、4日くらい経ってから。原発事故のことも最初は全然知りませんでした。5日後くらいに高速バスが走り出したので、すぐに地元に戻りました。バスケを再開できたのは5月末くらいで、仲間と再会できたときは、本当にうれしかった」

――福島ファイヤーボンズはもともと、震災で外遊びができなくなった子どもたちのためにスクールを始めたのがクラブ創設のきっかけでした。

「僕がクラブ創設の話を聞いたのは4年生の終わりくらいでした。まさか福島にプロクラブができるとは思っていなかったので、正直、驚きました。僕自身も当時、プロ選手になれるとは思っていませんでしたが、福島が最初に手を挙げて声をかけてくれました。選んでもらったからには全力でやろうと思いました」

――震災から10年、クラブはどう成長したと思いますか。

「最初は名前も知られておらず、『ファイヤーボンズ』を『ボンバーズ』と間違えられたこともありました。今では、街中でも声をかけてもらうことが増えましたし、子どもの姿が増えました。会場に来るお客さんの年齢層も広がったと思います。知らない人同士でも、会場に来ただけで仲間になれる。コミュニティーを作れるところに、プロクラブの意義があると感じています。福島は原発事故の影響で県外に行かざるをえなかった方々もいますが、県外に行かれた方がアウェーの試合に応援に来てくれることもありました。もっとたくさんの人との絆を生めるように、もっともっと有名なクラブにならなければいけないと思っています」

――いま、伝えたいことはどんなことですか。

「今季、特別指定選手として一緒にプレーした半澤凌太(筑波大)は、福島市出身なんですけど、震災当時は小学生。今でもちょっと揺れが来るだけで恐怖を感じると聞きました。僕は当時大学生で、ある程度、自分で対処ができていたので、感じ方が全然違うということを改めて教えてもらいました。僕は、津波も実際には経験していないし、知らないことの方が多い。被災者でも知らないことの方が多いんだから、東北から遠い地域の人たちはより分からないと思います。経験を伝える術はなかなかないですけど、伝える努力を続けていきたいと思います」

東日本大震災から10年。福島・岩手・仙台・茨城-選手たちの想いとは。

岩手ビッグブルズ/千葉慎也選手

――震災当時は、実業団の大塚商会に所属していました。社会人1年目で、バスケットの傍ら会社員としての仕事もしていたと聞きましたが、地震が起きた時は何をしていましたか。

「スーツを着て、東京都江東区のあたりで営業の外回りをしている最中でした。電車も動かず、大渋滞でバスもタクシーも機能していなくて、帰宅難民になりました。自宅は千葉県船橋市で、線路沿いに大勢の人が歩いていく光景を、今も覚えています。すごく風が強い日で、寒かった。帰りながら、開いているお店をのぞいて、ろうそくやカップ麺を買いました。結局6時間くらい歩いて、自宅に着いたのは深夜0時前後でした」

――岩手県奥州市の出身。地元の被災状況はいつ知りましたか。

「携帯電話で地元にいる家族に連絡してもなかなかつながりませんでした。なんとか安否の確認はできたんですけど、津波のことを知ったのは家に帰ってテレビをつけてからでした。映画でしか見たことないような情景で、最初は理解できませんでした。僕が大学生の時にも岩手県が震源の大きめの地震があったばかりだったので、『なんでこんな短期間に同じエリアで大きな地震が…』という、どこに当てていいか分からない怒りや悔しさみたいなものが沸いてきました」

――岩手ビッグブルズは創設が2010年。震災直前に、クラブの正式名称が発表されたばかりのタイミングでした。

「クラブ立ち上げメンバーに高校の先輩がいたので、震災前から岩手にプロクラブができることは聞いていました。参加したいと思うようになったのは、震災がきっかけです。岩手に帰りたい、帰って何かできないかという思いが強くなりました。プロ選手になることに対して、不安はあったけれど、『自分にあるのはバスケットだ』と思ったので、可能であればチャレンジしたいと思うようになりました」

――震災から10年。今年は釜石市や宮古市で復興祈念試合を開催しました。試合では、障がい者アートを基にした事業を展開する「ヘラルボニー」がデザインしたユニホームを着用しました。障害のあるアーティストがデザインしたユニホームということで、話題にもなりました。

「初めてのコラボだったんですが、反響がとてもよかったです。私たちは少しでも岩手ビッグブルズの存在が復興に向けた支えになれればと思って活動しています。沿岸部での試合は1地域1節しかない。だから毎年、復興祈念試合にかける思いは特別大きいんです。以前、米国出身のローレンス・ブラックレッジ選手が在籍していた時に、彼が『復興祈念試合の前にそんな雑な練習するな』と喝を入れてくれたこともありました。毎年メンバーの入れ替わりはありますが、外国籍選手を含め誰もがクラブの文化を理解してプロフェッショナルとして活動してくれます。この時期は特に心がジーンとします」

――今年は、八村塁選手が所属するNBAワシントン・ウィザーズが、被災地域を拠点とするBリーグ4クラブのマスコットをホームアリーナにパネルで設置し、「DON’T FORGET 3.11」とメッセージを掲げる取り組みもありました。

「世界最高峰の舞台に、自分のクラブのマスコットがいて、素直にうれしかったです。応援してくれているんだなと。世界に向けた発信で、見る方もすごく多く、風化させないという意味では大きな活動だったと思います」

――これからチャレンジしてみたいことはありますか。

「ありがたいことに、10年で岩手ビッグブルズが地域に周知されるようになってきた。震災の経験を風化させないために、防災活動もしていけたらと思っています。スクールコーチをやっていると、震災を知らない子どもが多くなったと感じています。沿岸部の方たちの『津波てんでんこ』という言葉。『津波が起きたら、家族のことは気にせず一人一人が逃げてまず自分の命を守りなさい』という教えですが、僕も正直、東日本大震災後に知った言葉なんです。僕らは毎年、オフシーズンに宮古市田老町で合宿し、必ず防災講習を受けています。地震の時にどう行動しなければいけないのか、子どもたちに向けてもどんどん発信していく必要があると思います」

東日本大震災から10年。福島・岩手・仙台・茨城-選手たちの想いとは。

仙台89ERS/片岡大晴選手

――当時は栃木ブレックス(現宇都宮ブレックス)に所属し、クラブとしての支援活動にも参加していました。

「はじめは無力感でいっぱいでした。僕は仙台市出身なんですけど、現地に行くこともできず、栃木で募金活動をするくらいしかできませんでした。ただ、少し経ってから、福島から栃木に避難してきた子どもたちのために、ふれあいバスケットボールの会を開いたんです。仮設のゴールを持っていったら、子どもたちがすごく楽しそうにバスケをしてくれました。彼らに救われたというか、僕でも力になれることがあるんだと感じました」

――当時、一部ではスポーツをやっている場合ではないという空気感もありました。

「僕も、生きるために本当にスポーツが必要なのか、たくさん犠牲になられた方がいるなかでやる意味はあるのかと、いろいろ考えました。だけど、子どもたちとの時間が大きく変えてくれました。復興に向けて必死な毎日を送るなか、実際に体を動かすのはもちろんですが、バスケの試合を見て非日常を楽しむことは必要なことだなと。アリーナの雰囲気は普通の体育館と違うし、ドリブルの音やシュートが入った時の快感もあります。日常を頑張るために元気を養う場として、スポーツも必要だと思いました」

――震災から10年。仙台89ERSは今年2月、復興祈念で小学生向けのイベントを企画していました。奇しくもその前日、東北で最大震度6強の地震が起きました。その影響で試合は中止になりましたが、イベントは実施しました。

「揺れを感じた時は、僕自身もすごく怖かった。でも、東日本大震災を経験された方はもっと怖かっただろうなと思いました。イベントの実施は、震災当時、仙台の現役選手だった志村雄彦社長の信念によるものだったと思います。昔からクラブを背負っていて、復興に向けた活動、地域を元気にする活動を、いつも背中で見せてくれます。僕らもしっかり学んで、同じように地域に貢献したいと思います」

――この10年は長かったと感じますか。それとも早かったと感じますか。

「僕は地震が起きた時に地元にいませんでした。家族から『ガソリンを買うため2時間並んだ』とか、ライフラインが止まってしまっている状況とかを聞きますが、僕は『大丈夫?』と聞くことしかできなくて。それがずっと引っかかっているんです。今は仙台の人たちからも『大変だったね』と声をかけてもらうことがありますが、本当に大変だった時期を僕は知りません。だから、僕が10年を早いとか長いとか言ってしまうのは違うと思います。この10年、現地の人たちは苦しい思いや寂しい思いをしながら復興に向けて過ごしてきたと思うので」

――いま、仙台を拠点とするクラブに所属して、できると思うことはなんでしょうか。

「現地の人に寄り添って、震災の経験を風化させないために発信することだと思います。プロのバスケットボール選手という仕事は、少なからず影響力のあるものだと思っているので。毎年オフシーズンも沿岸部をまわって、南三陸のあたりは町としての復興は進んだと感じています。ただ、人の気持ちの部分をみると、何年経ってもつらい思いをしている人がいる。そこにしっかり寄り添いながら、経験と記憶をつなぐ存在になれたらいいなと思っています」

東日本大震災から10年。福島・岩手・仙台・茨城-選手たちの想いとは。

茨城ロボッツ/遥天翼選手

――東日本大震災だけでなく、2016年に熊本地震も経験しました。

「東日本大震災は、大学を卒業する直前で、東京都の実家にいました。4月から名古屋ダイヤモンドドルフィンズに入団することになっていて、バスケを仕事にする不安や覚悟でいっぱいいっぱいだった上に、父が病気で危篤状態でした。何もできなかったです。熊本地震は、熊本ヴォルターズに所属していた時に起きました。試合で遠征中だったので、帰りたくてもなかなか帰れない、歯がゆさを経験しました。一週間くらいしてやっと自宅に戻れましたが、家具が倒れてごちゃごちゃになっていました。ホームアリーナの一つ、益城町体育館も防災拠点として使われていたし、体育館への道も地割れがいくつもあって、地震のすさまじさを感じました」

――チームの拠点体育館が使えないなか、どんな活動をされましたか。

「熊本地震が起きた後の試合はすべて参加を見合わせました。シーズンは終わったけれども、僕らにはまだできることあるんじゃないかという思いから、まず熊本ヴォルターズとして選手会を立ち上げ、それぞれの選手がSNSを使って熊本県外から物資を募りました。地元出身の小林慎太郎さんの実家を拠点にし、自分たちの車で毎日、SNSでつながった人たちに届いた物資を届けに行きました。運送会社にトラックを借りて各地を回ったこともあります。国がまとめている物資の拠点にも手伝いに行きましたが、物資はあるのに許可がないと運び出せない。パンやおにぎりなど賞味期限が短いものは、さばけないまま廃棄になっていて、歯がゆさも感じました。時間が経つと求められる物資の内容も変わってくるので、タイムラグの悩みもありました。誰もが初めて体験する事態で、現場で難しさを感じることの方が多かったです」

――東日本大震災の時は自分自身のことで精いっぱいでしたが、熊本地震の時は積極的に動けたようですね。

「手応えはありました。熊本ヴォルターズとして学校や高齢者施設など様々なところに行きました。クラブのことを知っている人も知らない人もいたけれども、『ありがとう』と言ってもらえることに、僕らが逆に元気づけられていました。震災から1~2週間後には、物資よりも笑顔が必要だなという段階になって、子どもたちとバスケをして触れあいました。うぬぼれかもしれないけど、あの時できた地域とのつながりで、クラブを応援してくれる人も増えたと思っています」

――3月には、茨城ロボッツとして震災の教訓を未来につなぐ「防災×バスケットボール ディフェンスアクション」にも挑戦しました。ドリブルをしながら備蓄品リストや災害時の防御姿勢を学ぶ企画ですが、いかがでしたか。

「子どもたちが遊び感覚でやってもらえば、すごく熱中してやれるメニューだと思いました。僕もどんな姿勢が適切かなど、お題で実際にやったものは覚えています。バスケを通じて学べるのが良いですよね。災害が起きた時にぱっと動けるように、子どもたちには正しい知識を頭に入れておいてほしいと思います。いまは100円ショップでも結構そろえられますから、自宅には必ず防災袋も用意してほしい。クラブのグッズとして販売するのも良いかもしれない。バスケ選手として何かしたくても個人でしかできなかったことが、Bリーグがハンズアッププロジェクトを立ち上げたことで、一枚岩になって取り組めるようになりました。一つひとつの活動をつなげて連携できるということが、この10年間のバスケット界の成長なんだと思います」

東日本大震災から10年。福島・岩手・仙台・茨城-選手たちの想いとは。