2023/05/17B.HOPE STORY#025

熊本地震から7年
~スポーツが地域に与える力、スポーツ選手の存在意義とは~
Mr.VOLTERS 小林慎太郎さんインタビュー(前編)

2016年4月、最大震度7を記録した熊本地震から7年。
大きな被害に見舞われた熊本県益城町にある益城町総合体育館をホームアリーナのひとつにしていた熊本ヴォルターズ。7年経った今シーズン(2022-23シーズン)、地震発生以来初めて益城町総合体育館で公式戦が行われました。地震が発生したシーズンは、リーグ戦に復帰することはできず、クラブの存続さえ危ぶまれました。
7年経った今、当時を知る選手は誰もおらず、スタッフも数える程度です。それでも熊本ヴォルターズには、『記憶の継承』と『自分たちの存在意義とは何か』がしっかりとクラブ内に語り継がれていました。

前編では、2013年から熊本ヴォルターズに所属し、2020-21シーズンに現役を引退した「Mr.VOLTERS」こと小林慎太郎さんに地震発生当時の状況や想い、復興支援活動、プロスポーツ選手の存在意義などについてお話を伺いました。

※本記事は前編となります。後編は6月公開予定です。

※本インタビューはZoomにて実施

ーー熊本地震が起きた時の当時の状況を教えてください。

小林)地震発生時は神奈川へ遠征に行っていて、連戦で試合がありました。練習が終わってホテルに帰って食事をして、選手たちはそれぞれリラックスした時間を過ごしていました。そしたら21時半過ぎに急に凄い数の電話が全国からかかってきました。部屋で映画を見ていてニュースも付けていなかったので何が起こったのかさっぱり分かりませんでした。当時の清水ヘッドコーチが慌てて部屋に入ってきて、急いでニュースを付けたら、熊本で震度7の地震発生というニュースが流れてきました。鮮明に覚えてます。熊本に家族がいる選手も多く、電話が繋がらなかったので安否が分からず、チームは混乱していました。

翌日に試合もあったんですが、「試合を延期して欲しい」「早く帰らせて欲しい」とチームとリーグに伝えました。次の日には現地の家族と連絡が取れて、食料や水がないという状況も分かっていたので、一刻も早く帰りたかった。現場で何が出来るか分からないけれど、熊本に帰ることが1番のやるべきことだと訴えました。清水ヘッドコーチは阪神淡路大震災を経験されていたので選手たちの気持ちを汲んでくれました。ただ、リーグ側の「試合をして欲しい」という気持ちも分からなくはなかった。試合開始1時間前まで話し合いをしていましたが、家族全員の安否が取れていたのと地元が熊本で知り合いもたくさんいて助けてもらえる状況もあったので、15日の試合は実施することにしました。

ーー14日の前震のあと、16日に本震も発生しましたね。

小林)15日の試合が終わってホテルに戻り、深夜1時半ぐらいの発生でした。その間も余震が何度も起こっていたので、心配で気になって起きていました。本震が起きた時にすぐ清水ヘッドコーチに「もうこれ以上(試合は)無理だ。熊本が大変な状況なのに、バスケットボールをやることで誰に勇気を与えられるんだ。今は熊本に戻ってそれぞれができることをするのが1番やるべき事ではじゃないか」と伝えました。リーグのみなさんも理解してくださって、試合は中止という判断となり、私たちは熊本に帰ることになりました。
熊本空港が地震で使えなくなってしまっていたので、夕方の便で福岡空港まで行き、高速道路も寸断されてしまっていたので下道で7~8時間かけて帰りました。その前にお店に寄って水と食事を買いました。持ってきたユニフォームやバッシュも全部捨てて遠征用のキャリーケースを空にして入れましたよ。実家が関西だった後輩の選手も中身捨ててキャリーケースを空けてくれて、熊本まで持ってってください!と言ってくれたんです。1個50Kgぐらいはあったんじゃないですかね、空港の方も驚いてました。チームみんなそんな状況で飛行機に乗り込みました。

ーー熊本に帰って見た光景はいかがでしたか。

小林)熊本に着いたのは真夜中だったんですが、1番驚いたのは、道が隆起して盛り上がってしまっていたんです。みんな空港に車を停めていたので空港に向かい、僕は益城町を回って帰ろうとしたら、車が進めないんですよ。隆起しちゃってるので、車の腹が当たってしまうんです。斜めになりながら、慎重に車を走らせました。実家の近くや知り合いに水や食料を届けて家に着いたのが夜中の3時とかでしたね。

益城町総合体育館で感じたプロ選手の存在意義

小林)熊本に着いた次の日の朝、気になって益城町の体育館に行ったんです。
車を降りて最初に会った方がいきなり僕の顔を見て泣いたんです。僕のほうに走って来られて「試合だったのにわざわざ来てくださったんですね。会っただけで勇気をもらえました。」と言ってくださったんです。今思い出しても泣けるぐらい感化されましたね。その経験があって、「スポーツって地域にとって凄く大切なもの」であり、「プロスポーツ選手にもこういう役割がある」と認識させられました。今思えば、この方の涙が、この後の復興支援活動において頑張ることが出来た1番の原動力になりました。
もちろん、色々な方からかけて頂く言葉も覚えていますが、この経験が1番衝撃的で忘れられないものになりました。大人の男性の方だったんですけど、僕の顔見て泣くなんて、よっぽど辛かったんだろうし、心の傷も大きかったんだろうなと思うんですが、僕たちの存在価値を肌で感じさせられました。正直それまでは自分たちの力がどれだけあるのか見えていなかった。選手って自分たちの存在意義を分かってない人も多いと思います。

※2023年4月に開催された「がんばるばい熊本復興マッチ エキシビションマッチ」に参加した小林慎太郎さん
(写真提供:熊本ヴォルターズ)

プロバスケットボール選手としては0点。でも人として100点でいたかった。

小林)益城町の体育館に入らせてもらったんですが、崩れた体育館でがれきの中にバスケットボールリングが立っていて…その光景見たら悲しくなって涙が出てきたんですよ。でもさっきお話した男性の方の涙を見て、頑張らなきゃって思ったんです。
当時、地震の影響もあり、クラブの経営状況はかなり厳しい状況でした。週末も試合があり、選手としては試合をしなければいけなかった。対戦相手のクラブも遠征費も宿泊費も出すから試合をしたいと言ってきましたし、リーグも試合をして欲しいと言ってきました。ちょうどリーグの方が熊本に来てくれたので、一緒に益城町の体育館に行って、ロビーの固い床で寝てる方、泣いている方、赤ちゃんを抱えている方がたくさんいる、そんな現状を見て「試合をすることが熊本ヴォルターズを応援してくれている人の為になるのか」と伝えました。プロバスケットボール選手としては試合をすることが100点だと思います。でも自分は人として100点でいたかった。
そして、事務所まで行って当時の社長とGMの方に「お金はなんとか工面して欲しい。」と伝えました。自分は長いキャリアもあるし、給料は1番最後で良い、とにかく若い選手たちに給料を出してあげて欲しいとお願いしましたね。その代わり、選手も復興支援を頑張るからと。役割を分業しましょうという事ですね。
選手全員を集めて、一致団結するためにヴォルターズ選手会を立ち上げようという話もしました。

※熊本地震で大きな被害を受けた益城町総合体育館
(写真提供:熊本ヴォルターズ)

「熊本ヴォルターズに勇気をもらった。」-危機的状況だからこそ田植えを-

ーー熊本で実施された復興支援活動について教えてください。

小林)まず最初は「物資支援」ですね。当時のメディアでは益城町の状況が酷いという情報がたくさん流れていたので、益城町総合体育館にはたくさんの物資が届いていました。でも本当はそこから100m離れた小学校だったり、公民館のほうが物資が足りていなかったんです。でもメディアには載らないような場所で、実はそこに多くの避難者の方がいたりする。本当に必要な場所に物資が届いていないという状況でした。ホワイトボードに避難場所と人数をリストアップし、足りない物資を書き出しました。僕は熊本が地元で当時既にSNSもありましたから、情報収集が出来たんです。「ここは水が余っているけど、オムツが足りない」とか「ここは食料が不足している」とか。当時僕はこの活動を通じて知ったんですが、支援物資というのは他の避難場所へ分けたりすることが出来ず、届いた避難場所でしか使用することが出来なかったんです。だから、避難者の方が直接そこまで取りに行くしかなかった。でも高齢の方が被災している状況で取りに行くことなんて出来るわけがない。
そこで当時のクラブの役員の方に協力頂き事務所を倉庫として使用し、ヴォルターズ選手会が司令塔となり、全国から物資を集め、各避難所に届けることにしました。物資は全選手にSNSで発信してもらいたいとお願いしました。
おかげで毎日2~3トンのトラックで物資が届きました。積み下ろしを自分たちでしなければいけなかったんですが、昼間は道が大渋滞していたので夜中に来るんです。日中、他の選手は物資を届ける役割をしてくれていたので、自分も含めて2~3人で夜中来た荷物をひたすら下ろす作業をしていました。毎日2~3時間ぐらいしか寝ていませんでしたね。「俺がここを支えなきゃ」っていう想いでやってました。その頑張りを他の選手も見ててくれるから毎日一緒に頑張っていましたね。選手個人の車で遠方まで届けることをしていたので、ガソリン代は僕の身銭で払ってました。でも続けていると、「お車代」って支援をしてくれる方が現れるんですよね。本当に人のありがたみを感じました。

※物資を運んだり、がれきの撤去をする熊本ヴォルターズの選手たち
(写真提供:熊本ヴォルターズ)

僕が当時選手たちに「必要なのは田植えをし続けること。危機的状況だからこそ田植えが必要。」と言っていました。田植え=復興支援だったのかもしれません。大変な状況だからこそ顔を見せて「元気ですか?」と声をかけ続けること、顔を見せることで、みんなの心にヴォルターズが来てくれたと感じてもらうことで、いつか絶対稲穂になって返ってくると思っています。「あの時ヴォルターズが助けてくれた」と思った方が会場に足を運んでくれるかもしれない、スポンサーになってくれるかもしれない。

ーー稲穂として実ったなと感じた瞬間はありましたか。

小林)地震後最初の開幕戦ですかね。島田地区という1番地震の被害が大きかった地域があるんですが、そこのおじいちゃん、おばあちゃんたちが試合を観に会場に来てくれて「地震で辛かったけど、ヴォルターズが助けてくれて恩返ししなきゃいけないと思っている」と言ってくれたんです。みんなで協力してやって良かったと本当に思いました。そのシーズン、試合会場はずっと満員でしたね。
最近もたまたま益城町に行くことがあって、「地震の時の活動のインパクトは凄かったよ」と声をかけてもらいました。7年経った今でもこうして声をかけて頂くのはありがたいですね。

※2016-17シーズン開幕戦 大きな声で声援を送る観客たち

※試合後、ファンと交流する小林慎太郎元選手

ーー「物資支援」の他にどういった復興支援活動をしましたか。

小林)震災から1ヶ月半ぐらいすると物資は行き届くので、次は「炊出し」を行いました。まだガスが出ない状況だったので、温かいものが食べれなかったんです。小学校の調理場を借りてカレーを配ったりしました。被災者の方も手伝ってくれて良い交流になりました。

※炊出しをする熊本ヴォルターズの選手たち
(写真提供:熊本ヴォルターズ)

「炊出し」も1ヶ月ぐらいすると、季節も6月になり暖かくなってくるのでまたフェーズが変わりました。ここからいよいよバスケットボールを通じて元気にしたいと思い、バスケットゴールとボールを寄付することにしました。資金はヴォルターズ選手会設立と同時に口座も開設をして寄付を受け付けていたので、この寄付金を活用しました。200万円以上集まりましたね。
バスケットボールを通じて子どもたちが笑顔になる、そんな光景を見てこの活動を続けてきて良かったと改めて感じました。

※子どもたちにバスケットボールを教える小林慎太郎さん
(写真提供:熊本ヴォルターズ)

一連の復興支援活動を実施している中で、僕らは「熊本ヴォルターズの選手」という信用があった。震災直後の混沌とした状況の中で、「知らない人が避難所に入ってくる」「知らない人が家に来る」っていうのはなかなか怖いじゃないですか。そんな中で「知っている顔だから安心する」という言葉を頂いてスポーツ選手だからこそと感じましたね。

前編では小林慎太郎さんより、震災当時の状況やプロ選手が復興支援活動をする意義をお話頂きました。後編では7年経った熊本ヴォルターズが今後熊本県にどういった存在になっていきたいか、自分たちの存在意義とは何かなどについて、熊本ヴォルターズ所属の田渡凌選手にお話を伺いました。後編は6月公開予定です。