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B.HOPE
STORY

ストーリー

2018.05.16 / B.HOPE STORY #3

三遠ネオフェニックス 「プロスポーツ選手、プロスポーツクラブとしての社会的責任活動への想い」

Bクラブの魅力を社会的責任の側面から紹介する「B.Hope STORY」。第三回はBリーグが誕生して、クラブ名称の変更、ホームタウンを移設するなど、大きな決断を経てシーズン2年目を終えた『三遠ネオフェニックス』にスポットをあてた。
『大石シート』と呼ばれる難病の子どもとそのご家族を試合に招待するプロジェクトを継続して5年になる大石慎之介選手。大石選手にはプロスポーツ選手として、自身が継続的に行っている社会的責任活動への想いを、三遠ネオフェニックス運営会社である株式会社フェニックス 浜武恭生代表には、地域に対してクラブが貢献できる可能性など、永続し続けるプロスポーツクラブとしての想いを聞いた。

【インタビュー対象者】
・三遠ネオフェニックス 大石慎之介選手
2018年5月16日所属

・【スペシャルインタビュー】植野大和君のご両親
(植野博様、寿美様)

・株式会社フェニックス 代表取締役社長
浜武 恭生氏2018年5月16日所属

三遠ネオフェニックス 大石慎之介選手
※2018年5月16日所属 インタビュー

-プロスポーツ選手としての決意-

■『大石シート』誕生のきっかけは?

大石:最初は子ども病院への慰問から始まりました。僕と同じ小学校で、同じバスケ部に所属していた子どもが、後天性の難病にかかってしまったことを聞いて、一番初めはその彼「植野大和くん」のご両親と連絡を取り、オフシーズンに病院を訪問する活動から『大石シート』の原型はスタートしました。気持ちだけはあっても、具体的に訪問して何をしたらいいか分からなかった。まずは、個人で病院と連絡を取り合い、ポスターや備品を発送したり、訪問してできることを考えたり、試行錯誤しながら形を作りました。一度行ってみると、自分にもやれることがあることを知り、プロスポーツ選手として、この活動を継続したいと思いました。

フェニックスに移籍してからは社長である浜武さんにオフシーズンのこども病院慰問活動を継続したい旨を伝えました。そうすると、「オフシーズンまで待つ必要ないよ。すぐにやろう。試合会場に招待したらいいじゃないか。」と快諾頂いた上に、新しい提案も頂きました。フェニックスというクラブはとても理解があり、想いをちゃんと汲んでくれるクラブだと思ったことを覚えています。

■周りにそういう選手はいたか?

自分が知らないだけかもしれないが、当時はバスケではいなかったかもしれません。しかし、他プロスポーツではそういった取り組みを行っている選手の存在は知っていたので、最初は真似からでもいいから一歩踏み出してみよう、と思いました。その頃バスケットボールは2つのリーグに分かれていて、まだまだマイナーな競技だったかもしれませんが、いずれはバスケ選手も他プロスポーツ選手と同様に、そういった活動を行っていかなければいけないと個人的に思っていました。

「スポーツの本当の良さ」みたいなものを自分なりにずっと考えていました。他のエンターテイメントではできない、スポーツだからできることへ自分なりに向き合った結果、様々な境遇や社会課題など、目が向けられていないところにこそ目を向けるべきだと思いました。
僕は静岡県出身ですから、土地柄、サッカー選手がそういった活動をすれば、テレビで放送される環境だったので自然とそれに目が行って、自分の中での意識の醸成に繋がっていったのだと思っています。

■「植野大和くん」の存在と『大和魂』

『大石シート』誕生のきっかけになった大和くんは2017年3月16日に亡くなられました。
大和くんは年に1度しか試合会場に来ることができなかったので、その時会えることをモチベーションに自分も頑張っていこうと思っていました。『大石シート』実施の日は自分にとっても特別な日だったし、大和くんが亡くなってしまった今でも特別な日であることに変わりはないと思っています。

第一回目の『大石シート』は2012年12月16日の京都戦でした。実は、大和くんが来ている試合は全部勝っているんです!その対戦まで、京都にはなかなか勝てなかった。大和くんは何か大きなパワーを持っているんじゃないかなと思います。
そして、大和くんがつないでくれたご家族との縁をこれからも大切にしたいと思っています。大和くんから僕は何度もパワーをもらいましたし、これからも大和くんは僕の心の中に存在している。僕には「「大和魂」がある」と思っているんです。
大和くんのご両親は、彼が亡くなってから、外出する機会が減っていると聞いています。まだ様々な思いが当然あると思います。どんなタイミングでもいいので、僕はまたいつでも会場に来てほしいと思っています。試合会場にいる2時間でも、一瞬でもいいから、バスケットボールを通じて、時間を楽しんでほしいと思っています。

■『大石シート』を始めて5年。継続する理由やその思い

『大石シート』を利用して、毎年来てくれる人もいるし、初めて来場してくれる人もいます。様々な境遇や身体的状況の人がいる中で、アスリートができることの1つは、その競技を通じて、楽しみや高揚する感情や、日頃向き合っている何かから一瞬でも解放される時間を提供することだと思っています。
それをやっていった先に「バスケっておもしろいね!」「また来るよ」と言って頂けることが「よし来年もやろう!来年はもっとこういうエッセンスも入れてみよう。」などの想いに繋がっている。ただそれは僕一人でできることではないと思っています。クラブの協力がないと成し得ないことだと思っているし、周りの理解がなければ、継続はできていなかったと思っています。

大和くんが最初に会場にきた5年前からこれまで、会場で行うことも進化してきました。今回の招待はクリスマスの時期だったので、会場にきてくれた子供たちにジャンケンをしてもらってクリスマスプレゼントを渡すなど、年々交流も増えてきています。コートに入ることも普段はないので、そういった特別な体験を組み込んだり、この時間をどれだけ大事な時間にできるのかを最近は考えています。毎回50名くらいの難病の子どもとそのご家族を招待しているのですが、大切なのは「家族も一緒に招待する」こと。皆で一緒に試合観戦してこの2時間を特別な時間にして頂くことが大切。「その日だけでもいい、この2時間が会話の中心になってほしい。」そう思って招待しているし、そう思って僕は試合に臨んでいます。

■大石選手が思う世の中への期待

僕はこの活動を通じて、病気のお子さんを持つ親御さんのストレスや疲労が少しでも軽減される取り組みやイベントがもっとできたらいいなと思っています。それは、競技の垣根を越えて、もしくは他業界も一緒に行ってもいいと思う。親御さんへ思いを向けた社会の取り組みがもっともっと増えていくことを願っているし、自分自身ももっとやれることを模索していきたいと思っています。

5年後10年後、自分が選手を引退する時期を迎えても、クラブにはこの活動は継続してほしいと思っています。僕はバスケットボールが大好きだし、それしかやってこなかった。本当にこの競技が家族のようであり、空気のような存在。そんなバスケットボールが、子どもたちが目指すスポーツになってほしいと思っています。難病をかかえた子どもたちは、日々病気と闘っていて、とてもそれどころじゃなくても、それでも、自由に夢をみてほしい。バスケットボールがそんな存在になる日まで僕はこの活動を続けていきたいと思っています。

【スペシャルインタビュー】
植野大和くんのお母さん 植野 寿美様

-「大和に出会ってくれて、ありがとう」-

植野様:大和が病気になった時、お医者様からはすでに治らないと宣告されました。
小学校6年生の時、大和は突然倒れました。後天性の難病だった。ミニバスのキャプテンをやっていた大和は、大石選手と同じミニバスのチームの先輩後輩だったんです。大和が突然意識障害を起こしたのは、春の大会で県の3位になり、夏の苦しい練習を乗り越えて、秋には全県制覇!と盛り上がりを見せていた7月の終わりでした。 倒れた直後、ドクターヘリで病院に搬送。集中治療室で3か月を過ごしました。治療室に入った時から呼吸器が取り付けられ、そこから回復することはなかった。大和自身倒れたことも運ばれたことも、もしかしたら最後まで分かっていなかったのかもしれないと思う時があります。
大和の生命力を信じるしかなかった。それを信じ続けた9年間でした。
治療はなく、すべてが対処法でした。病院の先生には自分が幼児のように「なんでですか?どうしてですか?」を何度聞いたかわからない。
先生たちは根本治療が見込めない中で最善を尽くしてくれました。

大石選手が声を掛けてくれたのは、病気になって2年後くらいだったと思います。大石選手は大和が倒れる前、チームの練習に年に1,2度来てくれていました。プロの選手になったことは風のうわさで聞いていましたが、その時は「へぇ、そうなんだ。」としか思わなかった。接点はありませんでした。
大和が病気になってから、ある日突然大石選手から電話を頂いたんです。「子ども病院で何か自分ができることはないか。」という相談でした。後日、担当課の番号を伝えましたが、だいたいはそこから先は進まないものと思っていました。それでも、電話してきてくれたその思いが嬉しかった。
それが、数日経って病院から連絡があり、大石という方から電話があったことを知りました。驚きました。
1人で段取りして、ポスターなども1人で準備して行っていました。
ちょうどフェニックスに移籍するタイミングでした。取り組みの全てを1人でやってくれていた姿に感激したのを鮮明に覚えています。

大石選手には、「大和に出会ってくれてありがとう。」と言いたい。
大和本人だけでなく、私たち家族の心の支えになってくれました。年に1回「大石シート」に行くことを目標にして大和は頑張りました。
本当に出会えてよかった。大和もバスケをやっていてくれてよかった。大石選手がプロの選手になってくれて本当によかった。たくさんのことに、感謝したいと思います。
大石選手に出会ってから私たちもバスケがどんどん好きになって、年に一度アリーナに行くことを目標に生きてきました。
全国にはたくさんの難病を抱えたお子さんをお持ちのご家族がいると思いますが、我が家が違うところは、そこにプロスポーツ選手が関わってくれたこと。
普段の生活の中で、一緒の目標に向かって家族みんなが何かを頑張ろうということは、一般の家庭でもすごく難しいことだと思います。私たち家族は、生きる目標になったのがバスケットボールでした。2017年3月16日に亡くなった2週間後に浜松アリーナで試合があったのですが、大和はその試合にも行く予定でした。
身体が限界だったのだろうと思います。25日の試合を待たず、16日に帰らぬ人となりました。大和と一緒に試合に行こうと決めていたので、亡くなった直後でしたが、家族みんなでアリーナに行きました。「遺影を持って行っていいか」とクラブに聞いたところ快く承諾してくれました。その時も大和を連れて、一緒に応援に行ったんです。

大石選手にとって「大石シート」ができたのは、大和がきっかけだったと思いますが、これからも、今頑張っている子どもたちやそのご家族と繋がっていってくれれば、本当に嬉しいと思います。病気と闘う大和と一緒に生きてきた9年間は、私自身も倒れられないし、その覚悟で生きてきました。「大石シート」で試合を観戦している2時間だけは時間を忘れて一般の家庭と同じように過ごすことができましたし、社会との繋がりを実感することができた。本当に大事な時間だったと思います。
大和は、フェニックスという本当に大切な絆を残してくれた。これからもそれを大事にしていきたいと思っています。

株式会社フェニックス 代表取締役社長
 浜武 恭生氏 インタビュー

-三遠地域の阪神タイガースに-

■Bリーグが誕生してから変化はあったか?

浜武:チーム名称変更やホームタウンの移設など、フェニックスを取り巻く環境はBリーグになってから変わった部分があり、そこからスタートしたことは大変だったところもありました。しかしその分、より地域に対する思いが強くなっていることも確かです。
フェニックスは、日本全国のプロチームの中で、唯一県をまたいだチームでもありますので、市民の方々のアイデンティティの醸成が難しいクラブだなと代表に就任した当初から思っていました。
その中で我々は、バスケットボールというスポーツを軸にした活動を行っています。
僕は、本職就任前は「ものづくり」をやってきました。作ったものに価値があって、それを買って頂くというものでしたけど、この業界は「夢と感動」いわゆる『無形』ですよね、無形のものを売る。3年前bjリーグ時代にファイナルで日本一になった時に、おそらくブースターの皆様もお金に代えがたいような感動があったと思いますが、普段の生活において、試合以外にはそのクラブの存在意義を伝えにくいのも、この業界の1つの特徴であると捉えています。
だから僕はいつも、選手にはプロ選手としての前に「人として」という部分の大切さを伝えているつもりです。大石選手の『大石シート』については、彼のプロスポーツ選手としての使命感と、人として地域貢献や社会課題に向き合う姿勢に、尊敬するところが多かった。地域に根差していくプロクラブとして、地域課題や社会課題に積極的に目を向けていくことが、そのクラブの存在意義をなくてはならないものにしていく唯一の方法だと思っています。
2017年4月から豊橋市の職員の方をフェニックスに派遣して頂いています。それにより、行政や地域の本当のニーズを把握できるようになり、僕らがその具体的な悩みを解決する、また逆に僕らの課題を行政側に解決してもらうという相互関係が生まれ、地域とクラブとが、今とても良い形になっていると感じています。僕たちが活動しているエリアは、広域連合という形で様々な展開をうまく行っています。豊橋市との連携をしっかり成功させることで、東三河の他7市町村で同じような地域貢献活動を展開できれば、おそらくフェニックスがこの地域にあって良かったと言ってもらえるようになれるのかなと思っています。

■地域のスポーツ大使としての使命

僕たちは、愛知県から「スポーツツーリズム」事業の委託を受けています。例えばバスケットの試合前後にどうやってこの地域の良さや特徴を見てもらえるか、というものを具体的行動に起こしています。例えば、1月下旬に富山との対戦があったのですが、その際バスツアーを組んでもらって、多くの富山ブースターの皆様にお越し頂きました。雪が降らないこの太平洋側の環境だから味わえるイチゴ狩りツアーを試合前に体験して頂いたり、2ndゲームの試合開始前には豊橋市の動植物公園に行って遊んでもらってから試合会場にお越し頂くという企画を行いました。こういったスポーツツーリズムは自分たちのようなスポーツ団体だからこそできることであり、ホーム&アウェーがあるリーグ戦をやれているからこそ実現できる取り組みだと思っています。アウェーチームのファンの皆さんがせっかく多数お越し頂ける機会なので、地域の魅力をたくさん発信したいですし、たくさんの方々に地域の良さを知ってもらいたいと思っています。
東三河地域は山があって、海があって、温泉があって、いろんな資源があります。行政区分だと既成の市区町村でのPRになってしまいますが、東三河という広域連合でみるとそれをまたいで魅力を発信することができ、より魅力的なツーリズムができる。
2017年10月には蒲郡市でヨットの世界大会がありました。それを僕らフェニックスがコーディネートして、ヨット大会と共に、地域の観光地や名産品をPRする取り組みを実現させました。4月には奥三河地域(新城市、設楽町、豊根村)でパワートレイルというスポーツ大会があり、そこでも同じような情報発信の企画を行いましたし、夏には田原市でサーフィンのイベントがあるので、こちらでも地域発信の企画を展開する予定です。 我々はバスケットボールクラブですが、スポーツ興行を行うプロのイベント団体としてオフの時期も行政課題の解決に向けて様々な取り組みを行っていきたいと思っています。
この地域は春夏秋冬まんべんなくスポーツイベントがある。「スポーツを通じて地域の良さを知ってもらう」そういう活動を今年受託しました。この地域の『スポーツ大使』として、フェニックスは活動を続けていきたいと思っています。

「三遠」というエリアはバーチャル。それはほかの地域に例えるなら、阪神や湘南みたいなものだと思います。例えば、阪神は、そこにスポーツクラブがあるから『阪神』というブランドに拍車が掛かっていると思っています。それはクラブがしっかりアイデンティティを示しているからだと思っています。僕らも同じように「三遠」というエリアで存在感を発揮していきたいと強く思っているし、それを達成させるには、今取り掛かっていスポーツ大使としての役割や行政と連携したまちづくりも含めて1つ1つ具現化していくことだと思っています。「三遠地域にはフェニックスがある」と言ってもらえるような存在にならなければいけないと思っているし、この考えを持って「三遠」と名付けた経緯もあります。だから僕は「僕らが三遠地域の阪神タイガースになります。」と言っている。都道府県やエリアではなく、その『存在』をもって地域を表現できるようになりたい。「三遠にはフェニックスがある。」そう言ってもらえるまで、クラブとしてできる努力を惜しまずにやっていきたいと思っています。