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2020.01.28

B.LEAGUE HERO's STORY「折茂武彦」#2

  • COLUMN
~interviewer 小松成美~
第1回はこちら

第2回  自分のためのバスケから、ファンのためのバスケへ

兄の背中を追いかけて

小松:
最近は、「人生100年時代」と言われていますから、折茂さんも、まだ折返し地点。これまでの人生と同じように、この先、様々なチャレンジが待っているかもしれませんね

折茂:
はい、そうできたらいいですね。2019-20のシーズンが終わったあと、しっかり考えたのちに、進むべき道を決めた自分が、どんなことを発想し、どんな行動を起こすのか、私自身が一番楽しみにしています。でも、一つだけ絶対に決まっていることがあります。

小松:
それは?

折茂:
バスケットボールにかかわって生きていく、ということです。私にはバスケットボールしかありません。このスポーツを取ったら何も残らない人間です。命ある限り、バスケットボールとともに歩んでいると思います。

小松:
これまでのインタビューを読ませていただくと、折茂さんはたびたび「バスケットボールしかなかった」と発言されていますが、これからも折茂さんのバスケットボール人生はずっと続くのですね。一ファンとしてはとても楽しみです。 そんな折茂さんのルーツを辿らせてください。バスケットを始めたのはいつですか?

折茂:
中学1年の時です。それまではサッカーや野球をやっていたんです。ウチの両親はスポーツを全くやっていなくて、父は自営業でしたし、母は家にいて、本当に普通の家庭に育ったんです。

小松:
そんな少年が、12歳でバスケに出会うんですね。

折茂:
そうですね。中学でバスケットボール部に入ります。3つ上の兄がバスケットボールをしていまして、それが大きかったのかなと思います。私たち一家は、埼玉県の蕨というところに住んでいたのですが、兄は小学4年生からミニバスケットをやっていました。蕨はミニバスケットがとても盛んなエリアだったのですが、身長が高かった兄は、関東大会に出場するチームの中心メンバーでした。私が小学4年生の時に蕨から上尾へ引っ越したのですが、上尾にはミニバスケットがなかったんですよ。それで私は兄のようにミニバスに夢中になる機会がなかったんです。同級生と野球やサッカーをやる程度で、普通の小学生でした。

小松:
中学に入ると、バスケ部を選ぶんですね。

折茂:
特にバスケに思い入れがあったわけではないのですが、両親、特に母親からは「スポーツの部活に入りなさい」と言われていたんです。兄が同じ中学のバスケ部で活躍していたこともあって、卒業と同時に私が入学だったので、兄の後輩から、「バスケ部に入れよ」と言われて、入ることになってしまったんです。

小松:
お兄さんは、折茂さんが中学に入ると同時に高校へ。高校でもバスケをされたのですか?

折茂:
兄は中学でもとても優秀な選手でしたので、埼玉栄高校というバスケの強豪校にスポーツ特待生で入学しました。私は中学校からバスケを始めて、最初は全く興味もなく、好きでもなくて、おまけに上手でもありませんでした。他の中学のバスケ部の選手からは、「あの折茂の弟か」と言われて、気後れしていましたね。バスケにも興味がなくて、勉強は嫌いで、行きたい高校もなくて、親にも先生にも、かなり心配をかけました(笑)。

小松:
バスケットボール人生を歩むなんて、微塵も思っていなかったんですね。

折茂:
選手として生活するなんて、想像もしたことがなかったです。でも。

小松:
でも?

折茂:
中学の3年間で身長が33cm、伸びたんですよ。190センチの身長になった私を埼玉栄高校のバスケ部が拾ってくれました。兄が特待生だったこともあって、単願推薦で埼玉栄に入ったんです、無理やり(笑)。埼玉栄進学が、バスケットボールと本気で向かうことになったスタートですね。

小松:
わあ、運命的。

折茂:
本当に、身長が伸びていなかったら、どうなっていたことか(笑)。

バスケットボールは勝負の世界、楽しむものではない

折茂:
そういう感じで埼玉栄のバスケ部に入りましたから、バスケットボールから離れられない、離れたら何もなくなる、大変なことになる、と思って続けていたんです。その頃、全国大会に出場して何度かインタビューを受けたことがあるのですが、「バスケットボールは好きですか?」「バスケットボールを愛してますか?」と聞かれる度に、「いいえ」「ぜんぜん」と答えていました(笑)。

小松:
折茂さん、正直ですね(笑)。インタビュアーは困ったでしょうね。

折茂:
ええ(笑)。バスケットボールは、私の人生にとってなくてはならないものですが、でも今でも「バスケットボールは好きか?」と問われたら、なかなか素直に「はい」とはいえません。「バスケットボールを心から楽しんでいますか?」と聞かれたら「NO」と答えると思います。
というのも、私は毎回勝負のためにコートに立っているからです。その気持ちは、高校時代に培われたものなんです。ゲームを楽しむなんて余裕はまったくありませんでしたし、今でもそうですね。この世界に入って、一試合でも多く勝つために戦ってきましたから。現役である以上、楽しむという感覚は私にはないんですよね。

小松:
当時から勝負の世界にいるという意識だったんですね。

折茂:
そうなんです。高校時代からは、勝負しか頭にありません。現役を終えて、友達と遊びでバスケットができたら、初めて楽しむことができるかもしれませんね。

小松:
今のお話は、まさに折茂さんのプライドの原点ですね。折茂さんが、バスケを愛していないわけではない。でも全ての試合は勝負で、コートに立ち、勝つことにこだわり続けることが日常のすべてだったから、それ以外は考えられなかったということですね。

折茂:
はい、好きとか、愛してるとか、楽しい、ということを言っている暇がなかったんです。

小松:
そんな思いでバスケットボールをされていた高校時代、活躍されますね。

折茂:
2年生から試合に出られるようになりまして、3年生の時にインターハイでベスト8までいきました。その時、ジュニアの日本代表に選ばれたのですが、そのあたりから人生が少しずつ変わっていきました。そういう状況になって、いくつもの大学から声をかけていただけるようになり、「ああ、バスケで大学へ行けるんだ」と感慨深いものがありました。バスケが自分の人生を切り開く武器になるのではないか、と自覚していったんです。

小松:
お兄さんも大学でバスケットボールをやられていたんですよね。

折茂:
はい、東洋大学でプレーしていました。私が高校1、2年の頃も、大学に入学してからも、いつも兄と比べられて「折茂の弟」というふうに見られていましたね。最終的には「折茂のお兄ちゃん」と、言われるようにまでなりましたが(笑)。

小松:
高校時代にジュニア日本代表に選ばれる、というのは大きな転機だったでしょうね。そうとう厳しい練習もされたのですか。

折茂:
そうですね、今では考えられないようなことも色々ありましたよ。埼玉栄はスポーツがすごく強い高校で、ほとんどのスポーツのクラブがインターハイに出場するような高校でしたからね。今では問題になるような激しい指導もありましたが、そんなこと気にすらしないような環境でしたね。強くなるために、選手も、監督も必死で。その代わり、必ずインターハイに出場できるし、上位に勝ち上がってもいける。だから色々な鍛え方があっても、選手本人も親たちも何も言わなかったですね。周りが口をはさめないほど結果を出していましたから。それに、私は埼玉栄で人としての立ち振る舞い、規律みたいなものを学ばせていただいたと思っています。今と比べてはいませんが、私にとっては大切な時代です。

小松:
高校卒業後は、日本大学に進学され、そこでも活躍されますね。その頃は、バスケットボールという競技がプロになる未来など、到底描けなかったと思いますが、どういう思いでプレーされていたのですか。

折茂:
何しろ、大学でチャンピオンになることだけを考えていました。そこだけを考えて、練習して、日々精進していました。最終的には大学4年生の時に、インカレで日本一になることができました。 私の時代、大学バスケットボールは、日大と日体大の2強だったのですが、私が3年生のインカレで、日体大に20点ひっくり返されて負けたんですよ。それを経験して愕然として、奈落に落ちた状態で4年生を迎えました。関東大会、リーグ戦でも日体大に負けたのですが、最後の一番大きな大会であるインカレで、日体大に勝ったんです。これは本当に嬉しかったですね。 中学時代からバスケをしていて、日本一という経験がなかったので、頂点に立つ気持ちがわからなかったのですが、あの時に知ることができました。

自分を変えた、恩師のある言葉

小松:
大学を卒業した1993年、折茂さんはトヨタに入社してバスケを続けます。その頃はプロリーグがない時代でバスケを続ける選手は、みな実業団チームに入りました。折茂さんはどうしてトヨタを選んだのですか。

折茂:
トヨタを選んだのは、当時社会人チームの中でトヨタが決して強いチームではなかったからです。 実は、強いチームからもお声がけいただいていたんです。あの頃は、NKK、日本鋼管、日本鉱業、松下電器、三菱電機、などが強いチームでした。一方、トヨタとか、東芝、アンフィニは、これらの強いチームを追いかけている状態でした。 強いチームには、すごく力のある私の先輩達がたくさんいて、私のような実力では試合には出られません。試合に出られなかったら、評価されないですし、日本代表なんて夢の話です。そう考えて私は、強豪チームからは劣る、トヨタを選んだんです。 入ってから2年間は、仕事をしながらバスケをやっていましたが、それ以後は会社に頼んでバスケだけに専念させてもらいました。

小松:
それは、「自分の力でこのチームを強くする」という思いがあったのですか。

折茂:
口には出しませんが、そうした思いも確かにありましたね。私の周りも有名大学から来た素晴らしい選手ばかりでしたので、必ず優勝を狙えるようなチームになれるはずだ、という思いが、胸にありました。

小松:
当時のトヨタには、NBAから来た、ジャック・シャローさんがヘッドコーチをされていましたよね。

折茂:
ジャックとの出会いがなければ、今の僕は存在しません。49歳まで現役でコートに立った折茂武彦は彼の指導なくしてはあり得ませんでした。 ジャックの指導で一番衝撃的だったのは、「ボールに触るな」と言われたことです。オフの時はバスケットボールのことを一切忘れろ、と言われました。

小松:
バスケ選手に、ボールに触るな、は衝撃ですね。折茂さんは、集中型の選手ですよね。命をバスケットボールに賭けている、という表現がもっともふさわしいと思うのですが、その、集中するスタイルを見抜いていたのかもしれませんね。つまり、オンとオフを徹底的に作れ、と。

折茂:
そうかもしれませんね。シーズンが終わると、「お前は次の練習が始まるまで、一切ボールには触るな」と言われました。「いずれ触りたくなる時がくるのだから、その時期が来るまで触る必要はない」なんてことを言われましたから、現役生活の中で、一度も自主練をしたことがありません。

小松:
ええっ! そのスタイルは今でも続けているのですか。

折茂:
今も、続けています。Bリーグではオフが1ヶ月ほどしかありませんが、ボールには一回も触れません。昔は試合数も少なかったので、次の練習期間まで、日本代表に召集されなければ、3ヶ月ほどオフだったんですよ。その間、私はコートを完全に離れていました。シュート一本打っていません。

小松:
信じられない…。シャローさんは、他の選手にも「オフの日はボールに触るな」と言っているわけではないんですよね。

折茂:
おそらくそうですね。私だけだったのではないかと思います。トヨタに入って2年目ぐらいに言われまして、それからずっとその言われたことを守っています。私の2年目にシャローさんが来まして、その翌年、私は契約選手としてバスケットボール専属でトヨタと契約してもらいました。最初は会社に正社員として勤めていたのですが、一度退職届を出して辞めまして、バスケットボールの選手として契約してもらったんです。どうしてもバスケだけに集中したくて。

小松:
当時はあり得なかった契約ですね

折茂:
当時はあり得ませんでしたが、会社が許してくれました。ありがたかったですね。
私の一番の恩師は、ジャック・シャローさんなんですが、もう亡くなられてしまったんです。現役時代は練習中でも試合でも喧嘩もしましたし、色々意見をぶつけ合いましたが、彼の言葉によって、私は自分を変えることができました。

なぜシュートをたくさん決められるのか?

小松:
色々な場面で聞かれていると思いますが、自主練もしないで、なぜあんなにシュートや3ポイントシュートが決められるのですか。2019年1月5日、第18節第2戦の対シーホース三河戦で日本出身選手初の通算10000得点を達成しています。世界一のシューターです。

折茂:
おそらく、試合中に一切負の意識にとらわれないからかもしれません。良いプレーも誇ることなどありませんし、特に悪いことに対して、ミスをしたり、シュートを外したりしても、そこにとらわれません。下を向かないんです。それがシュートを決められる要因なのかもしれませんね。

小松:
シカゴ・ブルズ時代のマイケル・ジョーダンを取材した際、こんな言葉に衝撃を受けました。「私しかいない。私しか決める者はいない。そう思い続けてシュートを打っているから、何度失敗しても、何も恐れない」と。折茂さんと同じです。

折茂:
おお、マイケル・ジョーダン(笑)。もちろん、ミスをして、「あ、失敗してしまった」という感情がふっと浮かびますが、それも一瞬です。それ以降は一切考えません。

小松:
若い選手にもそういうお話はされるのですか。

折茂:
若い選手には言いますね。「気にするな、自分がやりたいようにやってこい、コートに入ったら動き回って、試合を荒らしてこい」と言っています。若手はそのぐらいでいいんだと思います。

小松:
今、荒らしている選手が何人か思い浮かびました(笑)。

折茂:
そういうことを経験すると、何がよくて何がダメなのかがわかるんですよね。自分で経験しないとわからないんですよ。いるんですよね「自分ではこう思っていて、こういうふうにプレーを構築して…」と頭で考える選手が。そんな選手には「理屈なんかいいから、何も考えないでやってこい」と必ず声を掛けます。

小松:
良い先輩ですね。もうひとつ、折茂武彦のシュートの秘密として語られているのが、爪の話です。ある記事で「爪を切ってしまったから、今日はシュートが入らない」、とおっしゃっていましたが、あれは冗談なんですか、本当のお話なんですか。

折茂:
はい、本当の話です。深く切りすぎるとダメなんですよ。実は中学時代からそうでして、ボールを持ってシュートして、ボールが手から離れる瞬間に、右手の中指と人差し指、薬指がボールを押し出すとき、爪が当たってシュッと音がするんです。あの音がすると、指先から、つまり爪の先から、しっかりボールの軌道が描けている、ということなので、自分では一番しっくりくるんです。でもその音が出ていないと、爪の先からシュートが放たれていないので、自分的にはダメなんですよね。

小松:
自分で音を聞いているんですか?

折茂:
それが、集中していると自分ではなかなか聞こえないので周りのチームメイトに聞くんですよ「音してた?」って。すると、「しています」「シュッ、って聞こえました」と教えてくれます。「していない」と言われたら、指先、爪の先に意識を集中させて、シュートを放ちます。

小松:
あ、コートサイドでレバンガ北海道のゲームを観戦して、折茂さんの爪がボールを擦る音、聴きたいです!

折茂:
コート脇なら聞こえると思いますよ(笑)。

何があっても下を向くな、とにかくシュートを打ち続けろ

小松:
実業団チームであるトヨタでのバスケ人生が終わったら、一社会人としてトヨタに戻り企業人になると、考えていらっしゃらなかったのですか。

折茂:
考えていませんでした。トヨタに入ったのは、何しろ試合に出られるだろうということと、熱心に誘っていただいたからです。
最初に社会人としてトヨタに入った時は、衝撃をうけましたね。この世界ではやっていけないな、と。自分には仕事とバスケの両立は無理でした。バスケットボールでトヨタという会社に入ったからには、バスケットボールでトップを目指すと決めていたので、そのためには、働きながらバスケットボールをするのは不可能だと思い、契約を変えてもらったんです。

小松:
折茂さんは自分のスタイルを若い頃に築き上げて、それをずっと保ち続けていらっしゃる。他の人は真似できないですよね。

折茂:
できないと思いますし、僕の真似なんかしちゃダメだと思います(笑)。

小松:
スタイルをずっと守り続けるメンタルはどこから? だって人は不安になることもありますよね。人一倍、オフの日も練習して、誰よりも多くシュートの練習をする、それで自信をつける方もいるでしょう。でも折茂さんはそうしませんでした。

折茂:
確かにそうですね。でも私は、シュートという芸しかありませんでしたから、その芸をいかに磨くかということを、徹底して考えてきました。
そして、ここにもシャローさんに言われた言葉があります。彼は私にこう言いました。「10本連続でシュートを外してもいい。その代わりお前は打ち続けろ。なぜならお前は、10本連続で外しても、その後10本連続で決めることができる選手だから。迷うことはない。下を向く必要はない。とにかく打ち続けろ」と。この言葉をずっと大事にしています。そう言われたその日から、シュートが入らなくても下を向かなくなったんです。

 

小松:
素晴らしいお話ですね。

折茂:
今でもそのメンタリティーを持ち続けています。シューターは一番何をするべきか。それはひたすらシュートを打ち続けることなんです。その意思を持っていないと、シューターにはなれないと思います。入らなくても、入らなくても、ひたすら打ち続ける。それがシューターです。

小松:
本当に、シャローさんとの出会いは折茂選手の哲学を築いたんですね。そのシュートに集中して、迷うことなく打ち続けるために、オンとオフが必要だった。

折茂:
私の場合は、オフの時間が多すぎるかもしれませんね(笑)。でもそれでずっとやってきましたから、残された最後のシーズンも、変えずにこのままいきます(笑)。

日本代表のアイデンティティとは何か?

小松:
日本一正確なシュートを打つ選手として知られている折茂さんは、トヨタだけでなく日本代表にも不可欠な選手になります。世界選手権などにも出場されますね。

折茂:
そうですね、1998年、31年ぶりの世界選手権でした。その年はアジア大会にも出場できました。そして2006年には日本代表に再び選ばれ、自国開催枠でしたが世界選手権を戦うことができました。

小松:
日本代表ではどのような経験を?

折茂:
今でも覚えていますが、当初は洗濯係ばかりでした(笑)。私と佐古賢一さんはあの時代、四六時中、洗濯ばかりしていました。洗濯物の入ったゴミ袋を3つほど抱えて、佐古さんと2人で川崎のコインランドリーへ行って、回る洗濯機の前でボーっと時間を潰している。その時の虚しさを時々思い起こします(笑)。

小松:
今では考えられないようなお話ですね。日の丸を背負った選手が、先輩の洗濯物を洗うという。

折茂:
そうですね。当時は洗濯をきっちりやる、というのが仕事でした。今はそういうことはなく、選手ファーストになっているから、非常にいい時代ですよね。
私が代表入りしていた当時は中国が強くて、打倒中国で練習をしていまして、中国に勝たないと当然世界選手権に行くことはできません。もちろんオリンピックも出られない。当時は目線がアジアでしたが、今はアジアではなくて「世界」ですよね。そこが昔と今の日本代表の大きな違いですね。だからこそ、世界で活躍できる選手がどんどん出てきているんだと思います。

小松:
日本代表というのは、日の丸を背負うという重みがありますね。

折茂:
あの当時、100万人と言われていたバスケットボール人口の中で、日本代表に選ばれるのは、たったの12人なんです。責任重大ですよね。そこの重みだけはしっかりと感じていました。

小松:
その「重み」の大切さを伝えるために、折茂さんは色々なことを考えていたんですね。

折茂:
日本代表のあるべき姿、というものをずっと考えていました。というのも、バスケットボールはずっとアマチュアのスポーツでしたから、服装もみんないつもジャージだったりして、そんな日本代表って本当にかっこいいのかな?とずっと思っていたんです。そして、国内の大会があった時に、全員スーツを着て行動するようになりました。私が協会に「スーツ一式揃えて欲しい」とお願いしまして、それが叶ったんです。
それまではジャージやハーフパンツを履いて移動していたのですが、そういう日本代表は決してかっこいいとは思えないですよね。憧れの存在でないと駄目だと思いますから、服装とか、そういう部分から変えていこうと考えていました。

小松:
本当にスーツ姿の日本代表はかっこいいですよね。Bリーグのチームもスーツですね。

折茂:
はい、レバンガの選手たちもスーツを提供してくださる企業(銀座山形屋)があり、スーツ姿で移動しています。昔はバラバラのジャージを着ていたんですよ。北海道コンサドーレ札幌とか北海道日本ハムファイターズはスーツで移動しています。私たちだけジャージなので「あ、バスケの選手だ」と言われていました(笑)。
服装は大切だと思っていまして、プロ選手ならどんなときにも子供たちの憧れの存在でなくてはいけないと思っています。子どもたちが見て、「かっこいいなぁー、ああいう選手になりたいな」と思われる存在でなければなりません。それはプロ選手の責任だと思います。

小松:
コートでも普段の生活でも、プロフェッショナルであり続けることにこだわり続ける折茂さんは、ある日、長年所属されていたトヨタ自動車を離れ、北海道へと渡ります。最終回の次回は、そのお話を聞かせてください。

折茂:
はい、よろしくお願いします。
(つづく)
第3回はこちら

小松成美

プロフィール
神奈川県横浜市生まれ。広告代理店、放送局勤務などを経たのち、作家に転身。
生涯を賭けて情熱を注ぐ「使命ある仕事」と信じ、1990年より本格的な執筆活動を開始する。
真摯な取材、磨き抜かれた文章には定評があり、数多くの人物ルポルタージュ、スポーツノンフィクション、インタビュー、エッセイ・コラム、小説を執筆。
主な作品に、『アストリット・キルヒヘア  ビートルズが愛した女』『中田語録』『中田英寿 鼓動』『中田英寿 誇り』『イチロー・オン・イチロー』『和を継ぐものたち』『トップアスリート』『勘三郎、荒ぶる』『YOSHIKI/佳樹』『なぜあの時あきらめなかったのか』『横綱白鵬 試練の山を越えてはるかなる頂へ』『全身女優 森光子』『仁左衛門恋し』『熱狂宣言』『五郎丸日記』『それってキセキ GReeeeNの物語』『虹色のチョーク』などがある。最新刊、浜崎あゆみのデビューと秘められた恋を描いた小説『M 愛すべき人がいて』はベストセラーとなっている。
現在では、執筆活動をはじめ、テレビ番組でのコメンテーターや講演など多岐にわたり活躍中。

福岡耕造

プロフィール
写真家、映像作家
人物撮影を中心に広告、出版他多くの媒体で活動する。
撮影対照はアスリート、タレント、音楽家、政治家、市井の人々など多岐にわたる。
代表作品は「島の美容室」(ボーダー・インク)、「ビートルズへの旅」リリーフランキー共著/新潮社)など。

撮影 : 福岡耕造
演出.編集 : 福岡耕造
アート・デレクション : mosh
音楽 : 「Room73 」波・エネルギー